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Story of 起承転結 - 起 その2 -


「起」の巻/その2

それは同時に、いくつもの「物語」の流れがあり、どこが始まりとは、明確には言えない
ただ、そこにあったのは「受け継いで欲しい」というココロの痕跡

Story of 風林火山とは、いま思うと「分類」すれば、富士さんからのメッセージ
「山」としてのカタチでは、世界に誇れる安定した風情の岳(ふぜいのやま)
「武士」のココロは、それを目指していた...

ヒトの風勢(ふぜい)/

「和人」とは、たぶん日本海の南側から、朝鮮半島から九州へと渡って来た民族
人間の発祥の地と言われる「アフリカ」から、遥か遠く大陸を渡り東へ向かった
日本列島へは、九州や中国地方あたりから上陸して行った...

たぶん、日本海の真ん中に海水がなくても、山沿いを移動するのが、ヒトの習性の「基本」であろうから、多分そうだった...
そして、徐々に日本列島に沿って「東」にと向かった

その移動する経路の中で、生活し易い、あるいはその時代にあった「技術」に見合った場所に「集落または街」を作り、みんなでマトマッて住んでいく...
その中の何人かのチャレンジャーあるいは冒険家、および、その地では何らかの理由で生活できなくなったモノ、あるいは技術革新で増えてしまったヒトたちが、徐々に東へと移動して行った

それは、何処の場所&時代からを、その「物語」のスタートとするかは、それぞれの研究者にまかせるとして、確かに「今」まで、繋がっている

例えば、どうしても史実に拘りたい向きには、文献のある時代まで「戻る」と、斑鳩(いかるが)の地か?
あるいは、生活の痕跡がある時代「卑弥呼」の時代まで戻れば、九州地方か中国地方あたりか?

どちらにせよ、たぶん、沖縄のシマンチューとアイヌ人との距離感の方が、和人とのそれよりも「近しい」と思われるから、シマンチューたちとアイヌ人が、先に日本列島に住んでいたのではないか?
また最近、北方民族それはどちらかというと、ロシア系の人種に近しいらしいが、北海道および東北地方あたりまでは、その民族が暮らしていたのではないか?

現在、オホーツク圏の遺跡などの研究が進んでいるようだから「学術的な立証」は、その結果を待ちたいところ
過去の事実あるいは史実自体は「それはそれ」であるから、今さら?俺たちの地は俺たちだけのモノ!と言って、他を排除するものではない
それをすれば「土地には、最初から名前が書いてあったの?」の水掛け論になるだけ

いまを共に生きるモノとしては「今の状況」で最良の状況にするのが「本筋」であるはず
今日までの「歴史上の負の遺産」が、そこにあるならば、それを真摯に「改めればイイ」だけのはず

話し戻って...

傾向で分けるとアイヌ人は「山の民」
シマンチューは「海の民」のような気がする
それは、和人が日本列島に上陸し、南と北に分かれたことによる傾向かもしれない

例えは悪いが、ダーウィンの進化論の如く、ガラパゴス諸島に棲むイグアナは、大きくわけて「海イグアナ」と「陸イグアナ」とに分けられるように、その環境に適応する「生き方」によって、大きな傾向が生まれたのではないか?

大航海時代(16世紀)が来るまでのシマンチューの国「琉球」は貿易国家であった
それも、フィリピンやシャム(タイランド)の国まで、その行動範囲は広がっていたはず
ただ、琉球国の土地は痩せていたので、圧倒的なヨーロッパ人たちの「鉄の船」を見たとき、国を維持するためには、言語的に近しい「和の国」と手を結ぶのが、より道理に適っていたのだろう

しかし、和人は上から目線で「支配」しようとした
しかも、そのココロがいまも有形無形で続いており、いまの世は、タンカーの時代であるから「海の民」であるシマンチューの特性は生きておらず、観光立国+アメリカ軍のベースとの共存の道を歩んでいる...

一方「山の民」のアイヌ人たちは、山の中では絶対的権力を持つ「熊さん」達や、すべての存在を変化させる「火」を『カムイ=神』と崇めながら、和人に追われるように、徐々に北海道に渡って行った
どちらかと言うと、農耕をするというよりも、山の中を駆け巡り、川の鮭を採っていたように思う
自然を加工するのではなく、それと共存する存在

大きく生活の場所が変わる、その「転機」としては、和人が「漢字」というコミュニケーション・ツールを持ったことによるような気がする

最近まで、アイヌ人は文字を持ってはいない
その時代までの身体的能力はたぶん、アイヌのヒトの方が高かったはず
だから、それまでに東に向かった理由は、どちらかというと「チャレンジャー・タイプ」で生きて来たため?

「文字を持った」和人たちは、アイヌ人を追うように、東に移動して行った
ただし、中国大陸での「漢民族」が、モンゴル族への対策として「万里の長城」を作ったほどの勢いはなかったが、言葉の上では「蝦夷(えぞ)」という、別の存在として捉えたように、そこには一つの大きな「線」が引いてあった

ここで考えるに、和人の持つ傾向を分類するとすれば、平地で稲を耕す「平地の民」
そして、平地は山よりも、海により近いから「海の民」の傾向も持つ
また、山から流れてくる川により、土地が肥沃になることと共に、川を氾濫させる脅威の対象として「山」を神と崇める傾向を持っている

もう一つの「神」としては、田畑の作物を育てる太陽は、もっと遠い存在としての「神」として、崇めていた
注)アイヌ人にとっては、あまり太陽は「火」としてのイメージはなく、身近ではなかった
より具体的に山肌から噴き出してくる「火」の方が脅威であったはず

生活への「脅威」の存在あるいは、それを「見守る」存在
そして、ヒトの手ではどうにもならないことを「司るモノ」がある
それを「神」と呼ぶのであるならば、この世界には色々な神がいる

つまり「どうしようもないこと」に、誰かの意志を感じていたとき、それが「神」になった
だから、身近の「脅威の存在」が神として崇める対象になっていた

一方、人間は「考える葦(あし)」である

自分の中に、それは主に「脳」という鏡を持ち、そこに色んな事象を書き写す
それを「言葉」というコピーに置き換えて、交換することを覚えた

言葉は「すぐに消える」存在だから、それ以外に「文字」という存在も、系統立てることによって「交換するツール」として編み出した
それ以外にも、現在は一番使いやすい「電子マネー」となる、貨幣という体系を持つようになった

その、色んなモノゴトを「蓄積できるツール」を持つことによって「人間の世界」は、地球を一周してしまった
そして「今」に至る...

けれど、今はその「コピーする」能力つまり「物事を置き換える」という作業の中に、あまりにも多くの「実態のないモノ」が紛れ込み過ぎたから、オカシクなっている

それが、まさに「偽」

しかも、言葉による「呪術」と言えるモノの翳(かげ)に隠れることで、何もしないで「ラクをしようとするモノ」がいるから、もっとややこやしくなっている
逆に言うと、それが、この世を生き辛くしているといえるのである

確かに、人間の歴史において「階級制度」というものは、必要以上の「変化」を起こさないという意味において、その「限られた世界」を安定させたから「社会」というものの歴史の中では意味を持つ
また「門前の小僧」ということもあり、必要以上の費用を掛けない、あるいは「悩む必要もない」のは、それはそれで、幸せな時代であったとも言えるのである

しかし人間は、ある程度「頑張れば」自分を変える、あるいは社会での役割を変えることが出来ることを知ってしまった
そして「階級制度」という固定されたシステムでは対応しきれないほど、世界の結びつきは「近く」なってしまっている

すでに「昔は良かった」は通用しない

より効率的に、物事を伝達しなければ「対応し切れない」ぼど、世界は狭くなっているのである
かつ、それぞれの役割において適材適所で対応しなければ、廻らなくなっていることも確か
もう、自分たちが「ラクをしよう」と隠れている場所もなくなって行くはず

だけど、な存在もある
使い方によっては、本末転倒になるもの、それは、それそのものを否定するのではなく
言うなれば、使い方の問題により「薬」にも「毒」にもなる存在

鏡に映るもの

それらの発祥のときは、より純粋な「薬」を目指したモノだったはず
けれど、発酵させるでのでなく、自分に都合の良いように「腐らせること」も出来る
取扱注意なもの

ときに、それは「負の遺産」として継承されてしまった...

結局のところ、人間の歴史の中で、それが色んな「苦」を生まれさせてしまっている
これからも「薬」として固定させることは出来ないのかもしれない
けれど、実体をアハ!!すれば、恐れるに足らず

それは、より、多くのみんなが「ゼロ」を知ること
それを伝承して行けば、何かが変わる

「畏敬の念」は、アタマでは理解出来なくても、身体が理解するごとく
まずは「感じる」あるいは「理解しようとするココロ」が、何かが自分の中で育ってくれる

確かに「道」はたくさんあって上等!!
別に、それぞれのやり方で、階段を登ればイイ
己を知り、同時に、自分とは違う「他」つまり「あなた」を発見すること

それをすれば、この世は、パラダイスあるいは浄土...etc.になる


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