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Story of 起承転結 - 転の巻 -

 

「転(てん)」

東京に居た頃の、後半の5年位(~02年まで)は、よく自転車に乗っていた
都内で移動するとき、地下鉄などを使うより、意外と自転車で動いた方が、便利な面が多かった
あるいは、その方が「地域の地続き」としての結びつきが、点と点(電車で移動するとそうなる!)ではなく、自分の生きている場面の、面としての広がりを感じることが出来るものであった

人間は「2本脚」で歩く

心理学的に言うと、赤ちゃんが、四つん這いでハイハイしていた処から、立ち上がって2本脚で歩くときには、約10mの高さから落ちるときの「ストレス」と同じモノを感じているという
「清水(寺)の舞台から、飛び降りる」
そんな気持ちを、誰もが子供のころ一度は感じならが、今日がある...

自転車に乗る

この場合は「5~7歳」辺りでの通過儀礼!?
最初は、後輪に補助クルマを付けたり、誰かに、後ろで支えて貰いながら、走り出す...
このとき新たな冒険者たち!?が感じるストレスは、ある程度「周りのことや、モノゴトの結果を知っている」から、立ち上がるときよりも少ない

あとは、自転車の織り成す「1本のバランス」の行方を、その身体で感じて、どのタイミングで、それに乗っかることが出来るか?への挑戦になる
案外、その時!の訪れるのは「一瞬」であり、気が付いたら、後ろで支えていたヒトが居なかった!?的に、そのハードルが何処のあったのか?分からないものである
逆に言うと「補助グルマを付けて、自分だけで走る」と、それを頼り過ぎて、それを外すときが遠ざかることになる

生きるとは、意外とそんなコトの繰り返し...

「泳ぐ」にしても、人間は元来、泳げる存在であるはずなのだが、それを見失っている??
因みに、すでに「そのタイミング」を外してしまった私は、分類上は「カナヅチ」である?
取りあえず、生活上は必要性を感じていないので、この儘でいるつもり...f^_^;

以上、余談


色々なモノ事に於ける「起承転結」のストーリー上の、この「転」の役割が、その全体像の8割ガタを占めると思われる
その中には、幾層にも重なった、それぞれの持つ「起承転結」の部分を孕(はら)みながら、転がって行く...

ローリング・ストーン(ズ)は、山から切り取られた岩が、徐々に「石」になり、川の流れを流れながら、海に向かう
その過程において、角が取れたり、破片になって、最後は「砂」になる
けれど、砂は、そのままでは「土にはなれない」
そこから、また幾千年の時が必要...かも?

それこそ、コンクリートの原材料は一度、海で出来た砂が、地球の長~い呼吸によって山になり、そこで気も遠くなる時間の中で、塩分を洗い落とされてから創られたものでなければ、脆くなる...
また、現在は世界中で、アチコチで木を切り過ぎて、そこにあった土が無くなり、砂漠化している地域が、増えている

そして、都会と言われる処も、土の上にアスファルトやコンクリートでコーティングをして、東京砂漠化と同じ様な様相を呈している
確かに『国を造り』は「治水から始まる」ワケで、土木の技術が発達していない時代には、それなりの高台に「街 or 町」が形づくられて行った...

それが「龍」に比喩(ひゆ≠揶揄やゆ)される河&川の流れ
それをある程度、治めることが出来るようになり、多くの平野は三角州として、河川の下流域に存在するから、そこに大きな街が作られて行った...
建物は平坦なトコロに作る方が、より容易であるし、寝るときも平らなトコロでなければ、身体のバランスが崩れる

昔からあった!風に見える「街」でも、案外その歴史は浅いモノもあったり、また、今は寂れている「街」でも、存外、その昔は栄華を極めた場所がある
ヒトの暮らし方、あるいは技術の発展が、街の持つ価値すらも換えて行く...
その様相は、ヒトのココロ持ち一つで、一瞬の内に姿を変える

やはり、その「受け継ぐべきモノ」を忘れ、その次!に簡単に飛び着いてしまったモノは、その歴史も短命に終わる
かつ、人間の物語というものも、その実質のサイクルは30年位であり、そのあいだに「次の芽」を育て、引き継いで行かなければ、地球という大きな循環の中では、川の上に浮かんだアワの様に、すぐに消えて無くなるもの

日本列島という舞台の上での「日本人」という種族の歴史は、基本は「西」から始まり、その技術の革新により「東」へと向かった
だから、同じ「音」で違う表記の街が、全国各地にたくさんある...

日本人という種族の「転がった跡」が、そこにある

其処には、
前の場所で腐りかけたモノを、新しい「文字」を当てることで作り直す、あるいは、
前の場所の別バージョンを、新たにそこに創る作業の繰り返し...

人間には、大きく分けて2つの傾向がある模様

それは、風の様に移動しならが暮らす者たち
そして、ヒト所に定住して暮らす者たち

ときに、それは大きな流れの中で、大きなウネリとなって織り重なり合って「転がり」ながら、人間の「歴史」という物語を刻んで来た

転がる中で「新しい!」を謳うためには、何かを否定するのが手っ取り早い
そして、それを他の人にも伝え易いし、分かり易い

しかも、色々な意味で「近い!」もの、目の前にあるモノを否定するのが、より簡単である
あるいは、過去を持ち出して、それが「基本だ!」ってやった方が、より自分たちを正当化することが出来る...

だから、それを強調するために、色んなモノが壊された...

歴史の転換期には、必ず !! 色んなモノが壊される
ある種、強迫観念に囚われたように、それを行ってしまう

本来は「ちょっとの違いがあればイイ」のに、それこそ暴走することがある
それこそ「壊すのは楽しい!」は、子供がせっかく作った粘土の像を、あまりにも呆気なく壊して、笑っているときの「ココロの有り様」に通じるモノがある

ある種の征服感

三島由紀夫の「金閣寺」で語られたもの、あるいは、ジョン・レノンの最後の時...
完成度が高ければ貴いほど、あるいは価値が高いモノほど、それを壊すときに感じるモノ

色々な「転がる物語」の中で、人間はそんな「自分だけの欲望」に飲み込まれるときがある
それに、何らかの「後ろ盾」があると、そこに根本的な「責任」を押し付けて、間違った方向に転がって行くのが「ヒトの常」

多分&多聞

「人間という種族」の物語は、大きな自転車の歩みの様に、色んな「物事のバランス」を取りながら、一つの方向に車輪の様に「転がりながら」向かっている...
ときに、それは揺らぎながら、地球という自転玉の上で織り成されている...

けれど、誰もが、そしてどんなことにも、時に「自転車の練習」の様に、自力でやろうとすると、自分だけでは乗り越えられない時がある
ウシロで見守る、ちょっとだけ手を貸す存在がいなければ、乗り越えられない、転がって行けない時がある様である...


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