hot_eyes 雑記帳

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テロップ (字幕スーパー!?)

最近、テレビを見ていると、やたらとたくさんの「テロップ」が画面に張り付いている

 

けれど、交通事故が交通量が増えると共に、事故件数が増えると同じように、画面上の「誤字脱字」も増えている

必ず1日数回、何処かで「テロップの間違いの訂正」のアナウンスがある

 

「てにをは」の間違い

「こんにちは」は「こんにちわ」ではなく、併せて「こんばんは」は「こんばんわ」ではない

これらの挨拶言葉は、「今日は、天気がイイですね」とか「今日は、これから何処へ行かれるのですか?」という、話の枕(≒省略)であり、「わ」を付けるのは、自分の勝手であり、それでは会話にはなってはいない!?

文章を見て「こんにちわ」って書く人には、気をつけろ??

 

それと同じように、「てにをは」を間違えると、その言葉は、文章としての体裁を成さなくなる

もしかすると、トンデモナイことになってしまう

 

確かに、日本語は元来、主語&述語の繋がりを曖昧にしていても、通じる「言語」では在った?

良くとれば、その「述語」の部分は誰がやってもイイし、みんなで同じ方向性を共有しているから、述語という方向性が有れば誰かがやる!ってことで、主語が無くても、構文が成立していた

 

だから、周りを煙(けむ)に撒くために、

主語を曖昧にしながら「やらなければイケないこと」だけを提示して、

その陰に隠れることを、あえてやる奴らが、後を絶たない...

 

マス・メディア

それは「たった1つの現場」を、紙やテレビ画面などのメディア、つまり「コピー出来るモノ」に映して、それを「大量に流すこと」

その「コピーの仕方」に間違いがあれば、多くの間違いを、社会全体に撒き散らすことになる

 

一方では、色んな「タネ(種)」は、蒔かなければ生えては来ない

手段としての「メディア」そのものの発展は、単純に「良いこと」

多くの人が、色んな情報に接することが出来るから...けれど

 

たった1つしかないオリジナル

例えば「阿修羅像」や「モナ・リザ」、果ては「パンダ」の展示会?などの場合は、みんなで観るために長蛇の列が必要になる

 

そのときの「関係性」において、みんな1人ひとりが、より「1対1」の関係を求めるから

状況として、1つしかないものをみんなで、つまり「1対多」になったとき、「多」にまわった人間は、直になるべく近い処で「自分の眼で観たい!」っていう「1対1」を求めるから、並ばざるを得ない

 

... そして、誰もが「自分だけが目立ちたい!」を求めるから、テロップなんかで誤字脱字の間違いがあると、その「伝えたいモノ」の本質に関係無いところまで、電話 or FAX or Mail なんかで「ツッコミを入れたくなる」

 

文明の利器

それが在るから、みんなが同じ情報を共有出来る

その可能性は広がったし、世間は狭くなった

だけど、ナンダか、世間に「たくさんのノイズ」が増えてしまった...哉

 

いつから、こんな喧(やかま)しい国になってしまったのだろうか?