いま!でこそ、クルマを持つことが、絶対的に「カッコイイ」ことでは無くなったが、昭和の時代は「マイカー」を持つことが、ステータスだった
そんな頃、その頂点(ピーク)が、バブル期の六本木のカローラ ≒BMW化する中、多くのヤングを含めて、日本中が、24時間戦っていた…
そんな中、多くの自動車のカタログには「スタンダード」というクラスがあった
それこそ、今ではカーナビ&ETCはレンタカーの標準装備である中、
「スタンダード」クラスには、エアコンやカーステレオ、ましてラジオすら「オプション」扱いで、ただ走るだけ!の装備しか附いていなくて、「スタンダード=標準」っていうのは、ほぼ「カタログ(絵に描いた餅)上のクラス」であったりした
いま!色んな「尺度」が揺らいでいる
雅に?色んなヒトにとっての「尺度」が有る為に、一見、この世の「定番」が無いYoh!に見え、方向性が見えなくなっていることは確か
また、そのヒトの立場に拠って「スタンダード」が微妙に違うので、言葉すら交わすことが出来なくなっている
その昔、団塊の世代とか新人類とか?自分の理解を超える者たちが現れると、それらをヒト括り!にする為の言葉を造り、ある種「理解を超えるモノ」として、それを理解することを放棄(≒放置)することで安心していた
そんなことの繰り返しの中、「定番」が揺らいでいる
最期には、それらの「尺度」に付いている、「目盛(メモリ)」や、ときに「桁」までが揺らいでいる
あくまでも「尺度」は、その現場に有る!わけでは無く、当に『机上(アタマの中)』のモノだから、どうとでも変化するモノ
将に!そんなモノに振り回されず、先ずは「現場(実)」を直視!! しなければ、新しい「尺度」は生まれない
『明日』は観得て来ない!