hot_eyes 雑記帳

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歩くこと Walking


「歩く」は人間特有の行動

ヒトの身体の構造は、2つの足で立ち、歩くように出来ている
ときに、獲物を追ったり、何かから逃げるときには「走った」

ロダンの「考えるヒト」は座っていたけど、
本当に何かに集中して考えているときは「歩きながら、考えている自分」に、気づくはず
一休さんのように、逆立ちするヒトもいるが「クマのように!?」家の中を歩き回るのが、思考に集中する基本形

どちらかと言うと、
4つ足動物は、何かを食べながら、ひと処に「ジッとしている」か、あるいは、何かに追って追われて「走っている」イメージ
昆虫たちは、歩くというより「這っている」か「飛んでいる」
アリさんなんかも歩いているようだけと、一生懸命「走ってる」

鳥さん達なんかは、2本足だけど、基本は「飛ぶ」
仲間外れの飛べない鳥、ダチョウやエミューは、歩くというよりも「ジッとしている」か「走っている」のがイメージ
ペンギンさん達なんかは、地面の上じゃ、歩くっぽい見えるけど「海の中を飛ぶ」のが、本分らしい

だから、人間の思考は「歩く」スピードで行われるのが基本

また、人間関係なんかも「歩く範囲」の中で考えたいと、ココロの底で考えている
それこそ歩いて行ける範囲、目で見える範囲内で、色んなことを考えるように、本来は出来ている
だから根源的なところで、ヒトは常に「考える範囲」を限定しながら、物事を考える
そして、その外側は「異なるモノの世界」あるいは「魔境」として、「ソト」に置いた

だけど、約200年前の18世紀の産業革命以後、色んな「動力」の発明により、その移動範囲や関係性が爆発的に拡がった
「歩く」どころではなくなり、最近は聞かなくなったけど、瞬間移動の「ワープ」とか「転送(from スタートレック)」とかまで考えられた

それまでは、現実的に言えば「歩く」以外は、
牛に引かれて「善光寺」に行ったり、馬の背で、野山を駆け回った程度
にゃんコは、手も貸してくれないし、ワンコは、子どもを背負うぐらいしか出来ない
バリエーションとして、金太郎は熊に乗っちゃったけど...

その後、馬の種族の「道産子たち」は力が強いから、牛の代わりに「力仕事」もしてくれた
...は、ここでは余談

その前のターニング・ポイントは、16世紀の「大航海時代」ではある
製鉄技術の発展(きっかけはそうだと思う!?)は「船の強度」の革新を起こさせ、より大きな「鉄を使った船」が現れ出して、大海原を多くの人間が渡って行った

けれど、海の真ん中では、あまり「風景」は大きく変化はしないから、情報としの「密度」は少ない
そこで移動する、そのスピード感としては「馬の背」で感じる程度である
(「火縄銃」などの飛び道具も生まれたが、ヒトは弾(たま)に乗ってはいないから、ここでは「関係ない」)
だから、瞬間的に「処理しなければならない情報量」は、それ程大きくは変化しなかった

けれど、18世紀の産業革命においては「移動のスピード感」が明らかに変わる

まず、列車や電車、その延長線上の「新幹線」を含めた「鉄道の世界」
スピードで言えば、インディー500あたり(F1は絶対的な速度では、それに勝てない)を頂点とする「自動車の世界」

飛行機はある面、点と点を結ぶから「移動した」という実感はなく、どちらかというと「ワープの世界」に含まれる
がしかし、もし地上スレスレを飛んで、その移動中に入ってくる「情報量」をもろに受け止めていたら、殆どのヒトが気絶する!?

「自分が動ごいていない!」と思って、それらに乗って移動すると、それこそ「風景が飛んで行く」
目はそれらを認識しているから、それに脳の処理能力は追い付かないので、最初はフリーズ(目が回り出)して、最後は拒絶するから、倒れるのである

「空が動いている!」と思っていた「天動説」の時代の人びとが、いきなりこの状況に連れて来られたら、アチコチでアワ吹いて卒倒するヒトがたくさん出て、その看護で大変なことになる
たぶん、その移動速度だけにも、ついて来れないかも知れないし、怖がって乗ることすら拒絶するかも知れない


その後の「地動説」

つまり「自分の方が動いていること」を知っているから、現代人はその状況を受け止めることが出来るようになった
だけど、肉体の方の情報処理速度は「歩く」のが基本だから、時間は同じだけ動いていても、その移動距離に合わせて「疲れ」の度合いが違ってくる

ただ、単に「見えている」だけじゃなく、色んなことを自分の中で「処理」しているから「普通なこと」と受け止めることが出来ているのである

だけど、人間の持つ「歩く速度で考える」以上のことをするから、知らないままに、ストレスが溜って行くとも言える

色んな意味で、上がってしまったスピードに「人間の方」が追い付いていない感じ

音楽なども、昔より「音の密度」が上がってしまったし、スピード感や刻むビートも早くなってしまった
それに馴れた耳は「もっと刺激が欲しい」から、もっともっと!!な面と、単に「癒しが欲しい」ときが混載することになる
いまの歌謡曲&ニューミュージックの復権も「癒し系への欲求」の現れ

...って、何だかんだと書いては見たけど
何はともあれ、機械たちや、ほかの誰かの力を頼らないで、

ときには自分の足で、
歩いて見ませんか?


「じゃらん」は、インドネシア語で「歩く」
「○○Walker」たちも、イングリッシュで「歩く者」
「地球の歩き方」なんて本もあった

歩くことで見えてくる「風景」もあるし、
ココロの中の「風景」も優しくなれる...はず