hot_eyes 雑記帳

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はんかくさい


漢字で書くと「半可臭い」

結構、北海道ではメジャーな方言
だから、みんなほとんど、知っている
けれど、色んな「北海道弁」と言われるものは、それなりにはあるけれど、アイヌ語を語源としないものは、意外と北海道以外でも使われている

「メンコイ」なんかは、北海道のヒトは「北海道弁」と思っているけれど、岩手県には「
岩手めんこいテレビ」なんかがあって、メジャーどころであったりする

やっぱり北海道民は他の地域よりも、近い時代に移住して来ているワケだし、その昔(江戸時代)よりも、移動手段が発達していたので、言葉のシャッフルは広範囲で行われた

だから、共通に使える言葉が、他の地域よりも多いとも言える

言葉はコミュニケーション・ツールだから「通じなければ、意味がない」わけで、だから、やっぱり単語の意味もすり合わせをしなければならない
文部科学省が「標準語」を管理するのも、言葉の意味がある程度「同じ」にしないとイケないから
そうしないと、言葉尻での「要らないケンカ」が起きるから

だから、考えように依っては「大きなお世話な話し」なんだけれど、何処かで誰かが、それを遣らなければいけない
ただ、腹が立つのは、それを分担しているからと言って「上から目線」になるところ
「お上からの、お達しだ!」っぽく威張ってやるから、反発される
だけど、「有り難たがって」その虎の威を借りたいヒトも、またいる!から話しが混ぜっ返しになる??

で、話し戻って「ハンカクサイ」

「辞書にはない」だろうけど、念のため!?って調べてみたら、有った!

半可臭い(だたし、パソコンでは文字変換されない)
/形容詞で「ばからしい」
/用法「はんかくさい奴ぢや、なあ、そんなことでメソメソ泣くのあ/放浪(泡鳴)」

とか、書いてある

相手を「馬鹿だねぇ」って言うニュアンスは合っているけど、ちょっとシックリ来ない
別に「生半可(なまはんか)」って言葉があるけれど、このときの「半可」の意味に近いような気がする

「それは生半可なことではない」って言う使い方をする
最近、流行りの「半端ない」は、まったく
別物??
このときの「半可」は、中途半端なという意味で、この感じが、より近い

「ハンカクサイ」は大体、年上の人間が、半端モノの年少者を「子供扱いする」ときに
使うもので、目上に「貴方は半可臭い」って言ったら、その時点で大喧嘩になる

大人は完ぺきである

が、日本における、その底辺にある「常識」であり、常に年下は「未熟者」という思いがある
だから、ある種、年下が年上をハンカクサイ呼ばわりしたら、それこそ「下剋上」なワケで、言われたヒトの「内なる世界」は可笑しくなるので、その抵抗感は案外、大きかったりする

「売りことばに、買い言葉」は、そんなトコロに問題の根っこがあったりする

本当は、前提として「ヒトとして!?」前を歩いているべきなのだが、意外と、ココロは子供で、カッコだけスモーキン’ブギなヒト!?に限って、その喧嘩を買っちゃうから、始末が悪い
ちゃんと自分を磨き続けている、自分に自信があるヒトは、そんなことは気にしない

「お前、面白いことをいう奴だな」ぐらいの、キリ反しになる

確かに、みんながみんな同じ仕事をしているときは、年功序列は意味を持つ
例えば、皆がみんな「田んぼをやっている」っていう場合は、そこにおける経験とは「データの蓄積」であり、それがモノを言うワケで、長く生きているということは、それだけデータ量を持っているハズ??で、それだけで偉い

だけど、やっぱり「動物的カン」っぽいことでも、その経験値がちゃんと現実に対して「有効」でなければ活けない
ただ長く生きていても、ちゃんと蓄積が出来ない半端モノは「現実として」居てしまう
結局のところ、本人自身の「日常のココロがけ」が、最後には活きてくるワケで、ちゃんと色んなことを蓄積しなければ、意味がなかったりする

だから、やっぱり「あんな何年、生きてるの?」って、年下に思われちゃう場面はあってしまう
そうならないためには、それ以外の「自分」を磨けば良いんだけど、それを「サボル奴」に限って、威張りたがりったりする??から、始末したくなる...

特に、今は「論理的な思考」が必要なワケで、たぶん、長嶋茂雄がコノの時代に選手としていた!としても、監督やコーチに、
変わりモノ!?扱いされる「使い難い選手枠??」に入っていて、2軍に居たかも知れない
社会そのものも成長していく時代の中で、スポットライトの当て方も変わって行く...
自分たちだけの価値観で判断するのは、

それこそ、半可臭い

ときに、そんな複雑なコトのすべてが「面倒臭く」なるから、色んなことを「駄目!」って言って、自分たちが生き易い、自分勝手な序列を作りたくなるヒトは出て来てしまう
「黙れ!」って言って、自分の言葉や都合を押し通したくなる

あるいは「口答えするな!」って言って、自分の「排除の論理」だけをテーブルの真ん中に広げて、それ以外には「聞き耳を持たない!」ってやる
意外と、そのテーブルに載せなかったモノに、良いトコロがあったりするから、結局めぐり巡って損をするのは自分だったりする

本当は、皆がみんな「ハンカクサイ」

「大人(おとな)」なんていうものは、死んだ後に、みんなに「惜しいヒトを亡くした」そして「あの人は大人物(オトナもの!?)だった」って振り返ってもらえて、初めて出てくる言葉でもある
自分は大人だ!って思うことからして、すでに迷い道に入っている...
どう見ても「ニンゲンが出来ている」ヒトが、不器用ですから...っていうから、カッコイイ

’80年代のカリスマ「尾崎豊(おざきゆたか)」

もう一歩で、年齢的に「大人になった」のを、拒絶した生物(92年4月25日没)
その葬儀が行われたのが「護国寺

その日(4月30日
)は小雨の中、地下鉄有楽町線の隣り駅の「江戸川橋」を超えて新宿山吹町まで、ちょっとトンガッタ服装のヤツらが、整然と順番待ちをしていた...
私の職場が音羽にあり、こいつらは何なんだ!?って思ったのを、今でも覚えている

確かに「子供のまま」で、現実的に存在する不条理!にモンクを言っているだけ!は、ある面「容易い」
有って欲しい「状況」と、今ある「現実」がかけ離れていればいる程、その叫びは大きくなる
尾崎はそれを、それなりのKOTOBAで歌にすることが出来た
そして、それは共感を呼ぶ

だから、子供の代表としての「OZAKI」は、カリスマだった

けれど、彼には現実としての「大人(おとな)の自分」を描くことは出来なかった
それが「不可解な死」になった...
純粋だったからこそ、自分を偽ることが出来なかった、ひとりの求道者だったことも、確か

何だかオカシイ!

それが解らなければ、始まらない
それに気がつくことが、まず大人への一歩
それを、自分で DO するか?を始めることで、ちょっとだけ、例えば「5分の3」くらい、大人になれる

「モンクばっかし」のままでは、何時までもコドモのまま
何もしないで、誤魔化すことを覚えるだけなら、そのまんま2分の1以下の「子供オトナ」大人モドキ

但し、何処かで「ハードル」っぽいモノがなければ、自分を見失うから、何らかの「基準」が必要
だから、20歳の献血とか、喫煙は20才から、とか線を引く
あるいは、色んな資格なんかもある
だけど、それを乗り越えたからと言って、自分が「エラク」なっていては、元の木阿弥

ハンカクサイままである??

それを乗り越えて、遠くに待ってる「ゴール」まで、それなりに前に進んでいることが「大人ing」
エド・はるみに、グーグ、グーッ!!って、突っ込んでもらえる様になる??