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Story of 起承転結 - 承の巻 -


「Story of 起承転結」&「Story of 花鳥風月」は、それらはある面「裏おもて」の関係にあり、それは龍の姿をして、輝く鱗(うろこ)の様に、空に向かって登って行く風勢を、イメージしている

ここは一つ「ガッテン!承知の助」な話しで、進んで行きたいと思う

ヒトは、新しい地に居(きょ)を構えたとき、2つの意味を持つ「モノ」を作る
けれど、それはドウも、ここの処の西洋や中東、アフリカ地域の場合は、それが「1つ」に集約されており、日本人(和人!?)の場合は、八百という無限大を内在させながら大きく分けて「2つ」に、それを集約させる形で、歩んで来た
だから、お互いにちょっとだけ「分かり合えない!」ところがある模様

だけど「古代」においては、その片鱗は「どこの地にもあった!」ワケで、それを「誰だ!必要以上に単純化させてしまった者は?」な、お話しは、何時か「その時!!」が来たときに、書き出すことになると思う

そして、日本の場合...

1つが「その地への挨拶をする場所」
つまり、それは起承転結の「起」の場所である、主に「神社」として、カタチにした

どちらかと言うと、其処は「大人」が集う場所であり、オンナ子どもは「近寄っちゃダメ!」っていうモノであった(時に、女官という「使いのモノ」を入れた場合もある)
そこでは、その地の神と遊ぶ!という、お祭りが行われ、また、何か新しいモノゴトの始まりの場所、イッセノセ!と声を掛け合って、みんなで呼吸を合わせるトコロでもあった

単純に考えるに「神社」は、感覚として「Shall we Start!!」という始まり間(カン)は感じられるが、「あの世」っていうような、終わった後のことは、イメージは出来ない
ただし、見守って欲しい対象を「神々の1人」にしちゃうことはあったが、それは奉られた本人にとっては関係ないこと(死んじゃってる?し)
まして、自分が「神になろう!」なんて思ったヒトは、その殆どが「そうなってないっしょ!?」が、今までの歴史の真実...

だから、例えば、何かを収穫した後の「秋まつり」などでは、モノゴトの終わったあと感はあるが、それは「御礼」であり、どちらかと言うと「次の年も宜しくね!」の方が強い
すでに、次の始まりの意味合いの方が、強いものである

そして、もう1つが「その後(あの世)」を内包しながらの、受け継いで行く場所
つまり、それが起承転結の「承」の場所である、主に「寺院」という、モノである

そこは、始まりの「起」の場所が常に「詞(ことば)で始まる」のとは違い、そこでは「教え」が主な目的となる
また、そこには、色んなモノゴトのショックアブソーバー(Shock Absorber)の役割、つまり「衝撃吸収器」としてのブンタンがあった

今までの「オレが、俺が!」な、先導争いあるいは船頭争いと言える「権力闘争」には、常に敗者が生まれるものであり、かつ、そこに巻き込まれた者たちもいる
それこそ、生きるということは「一切ガッサイ苦!」って先に言っておけば、そう何んだ!!って、諦めにも似た「合点」が行く

また、世の中は「儘(まま)ならぬ」ということを、言われてしまえば、ちょっとやそっとのことは「我慢が出来る」
だけど、それをヒトに求めて、実は自分(達)は蔵の中や料亭!?で、ヤリタイ放題している輩(やから)がいた!から、一切苦は無くならなかった...

すべてのモノゴトには「限り」がある

単純に言って「ヒトの寿命は、絶対に終わる」
あるいは「幾ら食べたい!」って思っても、胃袋の大きさには限界があり、イッペンには一人では「牛1頭」を食べることは出来ない??
ただし、個人差はあるが時間を掛ければ、何時かは食べられる
ただし×2、ベジタリアンや、肉がダメ!な人は、何時までも「睨めっこ」ではあるが...

一方では、その教えの中には「その!食べたい」っていう煩悩を無くせ!と説く場合がある
だけど、食べなければ「死んでしまう」わけで、程ほどの「頃合い」を知る必要があるワケである

「宙庸」とは、何処か?である

ある種「修行」っていうものは、極限のトコロは何処に或るのか?を探る意味においては「旅」としての意味がある
また、極限の所まで「そこまで行った!」ということは、ある種の満足感と、ココロの有り様には思った以上に「広さがある!」ということを知るための、良い経験になることも確か

それらの「色んなモノゴト」の蓄積される所が、お寺さんでもあった

今の様に、学校教育のシステムが確立されていなかった頃は、それこそ「寺子屋」が教育の現場であり、老若男女(ろうにゃくなんにょ)が集えし場所でもあった
色んなそれまでの蓄積が其処に集まり、次の世代へ継承されて行くところであった...

だけど、そこも生きた!人間が関わりを持つモノであるから、生き物でもある
だから「腐る」場合もあり、常にそれに気付いたヒトが、原点回帰的に「新しい風派」を生み出して来たのが、モノゴトの歴史でもある

かつ、その流れを作ったヒト達は「教えを説く」だけではなく、時代に大きな足跡を残して来た
だから、常に「誰と出会うか?」によって、その枝分かれは、それぞれに自分たちの「道」を創って来た
そして、その「道」を創ったヒトで全てが「御仕舞」にはならないから、色んな「道」が残る...

それはそれで、良し&好し

なワケで、それぞれの「道」を進んで行けば良いのであり、目指したトコロが同じ処で、そこを見失わなければ、ちょっとぐらい間違った?「道程」を通っても、ヒトそれぞれで「善い」のである
だから、使う教科書や言葉さえも「それぞれ」で、佳い!のである

時に、自分がその時!理解出来ない!!と「待った!?」をかけるヒトがいる

具体的に「誰かが、困る」のであれば、それも必要であろう
だけど、まさにその時その行動は、それを言う本人が「自分だけが困るから!」だったりするから、ヤヤコヤしくなる
色んな「新しきモノ」と「古きモノ」との争いも、そのラインの上で常に、行われて来た...

で、その「承」の場所

日本の場合は、元服(げんぷく)っていう制度があり、それを過ぎた人間は、もう「大人」扱いになった
それが「武士社会の限定!」と言われても、それ以外の社会では「神社のお祭りに参加出来る」っていう辺りにあった

一人前!

それは、その1本しかない!ラインで、それを通り過ぎたら、もうオトナであり、その先には「早く生まれた人間関係の序列」だけが存在し、ある種、それを過ぎた人間は「自分で自分を高める」ということのみが、意識されていた

そのラインは平均寿命が40才ぐらいの頃は、だいたい「15才」前後であったから、それ以降は「一端(いっぱし)の大人である」から、その年齢以上の「公共の教育システムは存在しない!」ことになる
その後は、それぞれの分野で「身体で覚えろ!」が、基本の世界であった...

その考え方は今でも、色んなトコロに顔を出す

けれど、今の世の中は、それでは済まされない程、一端の大人になるための「要件」はたくさんあることも事実である
それを「何処で、どのようにして、継承して行くか?」の設計図を持たないままで、システムを組み立てても、何処かで大きな「落とし穴」が口を開けていたりすることになる

その前に、今の時代における「大人って、どーゆうこと?」を、みんなで共有しなければ始まらない??
それを「ハッキリ」させないままで、今までやって来たからオカシクなっているワケ!?
だから、それを遣らなければ、始まらない...

だけど、意外とそうやって想像する「理想とする大人像」と、いま現実としての「自分」を比べたとき、あまりにも「理想と現実」が離れ過ぎていて、それ!そのものを「遣りたくない」って思っているヤカラがたくさんいるから、余計な事をする?
話しもしたくない!になっているようで、仕方がない...って思うのは、私だけ??

合わせて「人間とは、何か?」っていう話しも、しなければならない

だけど、それも避けて通って来た「道」にしているヒトもたくさん居る!...そのようにも思われる
だから、日本人には「宗教がない!」って思われて、信用できない!!って、国際社会で言われてきた...

一生懸命、ちょっとヒタ(下)向きに!頑張って来たけど、何処に向かっているか?見失っているのが、現代までの状況

そこで、色んなヒトが「それでは活けてない!」って思ういるのは、そのこと自体は「良い!!」
だけど、如何せん「周りを見ない」あるいは「見えてない!」ままで、動こうとするから、みんな迷惑!!になってしまう

ある種、イッセノセ!をするための「インターバル(Interval)」を取る、呼吸を合わせにゃならんッショ??
また、助走を付けなければ、飛べない!ヒトもいるんだから、その準備もしなければ往けない...

そして、そのまん前に「自分を分かっていない!」がある

今までの色んな「道」が、己(おのれ)自身を知れ!って教えてくれてはいるんだけど、多くのヒトが「他のヒトのことは分る!」トコロまで、ヒトの評価だけは出来る!から、混ぜっ返しになってるのが、今の状況...

それは、自分自身で乗り越えなければいけない、本当の意味での「大人になる!」ってことだから、イチバン大変なことだったりする...
また、いつの間にか「腐る」こともあるから、気を付けろ!?なもの

それを「継承」するのが、いち難去って、また「いち何!?」な、もっとも難しい課題でもあったりする...

 


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