それは、ヒトの営みの「連鎖(れんさ)」の上に成り立っている
色々なモノゴトが、廻(まわ)ることによって「次」が生まれてくる
ヒトの営みのほとんどが、この「転」の部分にある
それには、どこかに「起る場所」があり、それを「継承」して、新たな「転回あるいは展開」があり、一つの「結果」になり、それが新しいものに「結び付く」
それぞれに「起承転結」の循環の中、積み上げてきた、それぞれの物語がある
一つ一つに、始まりがあり終わりがある
しかし、終わりは単なる「お仕舞い」ではない
回転させる
次に、廻さなければ、すべては塵(ゴミ)になる
ヒトの営みの多くは、この「転」の結び付き
色々な「連鎖」の中に、ヒトは生きている
それは「鎖(くさり)」という負のイメージではなく、ただ「繋がっている」イメージにしなければならない
その昔オホーツクでも、まさに鎖に繋がれた人々が開いた「場所」あるいは「道」があった
私たちは「何げに!?」それらを利用させてもらっている
確かに、鎖に繋がれたヒトの過去には、それに繋がる物語(因果)があった
自業自得
けれど「それはそれ、これはこれ」
だからと言って、その「道」を足下にするものではない
勝手に!?「当たり前」と思ってはいけない
それを忘れて「次にいく」では、それはあまりにも卑しい
その「腐り」を「発酵」に換えていかなければ、朝日は昇らない...