「学校」って言われる場所に行っていた頃、
その学校や、担任から渡される、学校行事の案内や、色んな注意事項なんかが書かれていたのが、この「プリント」って言う奴
だけど、プリントっていうと、食べられる「プリン+ト」って考えたりすることも出来る
が、語源としては、英語であり、単語としては「PRINT」
それは、印刷されたモノ、あるいは、何かを何かに写すっということ
言うなれば、「何かを、コピーすること」あるいは、それを使って「何かを伝達すること」と言える
「人間界」に、印刷技術がなかった頃、あるいは紙というモノが無かった頃は、何かを伝達するには、言葉だけで伝達するのが主だった
けれど、それは「カタチの無いモノ」だから、その途中で、色んなアクシデントやトラブルに見舞われて、上手く伝えることは大変だった
だから、その時代の「時の流れ」は、緩やかだった?
また、初期の印刷機は、それこそ大きな物体だったし、1枚のページの文字を組むにも「写植業」という職業が存在する位、大変だった
だから、印刷物を造るためには、多くの「手間」が掛った...
それは、ホンの40年ぐらい前の話しである!?
「学校」というところは、正に!何かを伝える処である
だから、印刷物は必ず必要だし、色んな情報を発信しなければ、活けない!ところでもある
また、「同じ情報」をたくさんの生徒に伝えなければイケないところだから、印刷物が無ければ存在できないところでもある
身の周りに、簡単に使える印刷機が無かった頃は、
学校では、文部省が決めた「教科書」だけを使っていれば良かったし、生徒は半紙と筆の硯(すずり)とソロバンを持って学校に行けば良かった...
その後「ガリ版」や「青刷り」なんかの、簡易印刷機が学校に普及して、学校自身、あるいは個々の先生自身で、色んな印刷物を作ることが出来る様になった
そして、最近はパソコン&コピー、電話&FAXに、Eメール ..etc.
と!、色んな「情報発信機器」は、たくさん在る様になった
そして、現在、身の周りには、色んな「コピー」が溢れている
だから、色んなことをコピーする技術が増えた分、それをコピーしている間に、色んな「間違い」が紛れ込む可能性も増えてしまった
それは、色んなヒトの「手」が関わらなくなった分、色んなヒトの「眼」が見なくなった
だから、客観的な眼で見ることが無くなったから、「間違いを発見する」
その可能性が、低くなったということ
そんな世界!だから、間違わないことに、色んなヒトが神経をすり減らすことになる
本来は、学校は間違えることを良しとするトコロ
間違ったってイイじゃない!っていう、空気感に包まれていなければ、ニッポンに明日は来ない...カモね
何か、息苦しいのは、私だけ!?