自分だけの論理
やっぱり、ヒトはそれぞれに「自分の尺度」で、色んなモノゴトを判断している
そして、自分がイチバン解り易い、使い易い(≒安い)「物差し」は、自分の中にある
だから、誰もがみんな、そんな尺度で「世の中」を推し量る
その上、自分が理解し易いように、ときにその尺度に合ったカタチの様に!すべての風景を造り変えたい衝動に駆られる
それは、人間が持って生まれた、一つの「性」でもある
キリスト教の言う「原罪」って言うモノがある!が、それは「教典」に描かれている
ある種それが、正に『それ』
この世は、そんなそれぞれの「欲」をすべて!満たせるほど、色んなモノが溢れ返っているわけではない
色んなモノが、限られている
だから、それは際限のない「競争」を生み出すこともあるから、絶対的に越えられない存在が必要! っていうことで、神を作った
けれど、単なる『鏡』にすべき、その存在を「カタチあるもの」にしたから、勘違いが始まった
しかも、それを背にして、自分の「利」を「理」に置き換える輩が続出したから、ヤヤコヤしくなってしまった
だから、ときに新しい流派は、それまでの流派の崇めて来たモノを「偶像」と言って排除したり、壊して来た
あるいは、なるべく「カタチの無い」様なカタチにした!?
けれど、分かるためには「形式」が必要で、新しい「カタチ」が生まれて行く...
「モノゴトが腐る」ということは、そういうこと
それに気付いたから、キリスト教社会では「宗教革命」が起こり、政教分離なんてことも起こった
けれど、そこでも「否定してはいけないこと」まで否定したから、未だに迷子なヤツらがいる??
....だから、後発のイスラム教には「キリスト像」の様な、カタチある存在は、存在しない!?
だけど、「言霊」はなるべく正確に伝えたいから、コーランは大切にする
「作法」あるいは「シキタリ」は必要だから、「西」を気にするようになった
一方、言葉あるいは文字での伝達に懐疑的な仏教の世界では、よりビジュアル的に伝え易いように「色んな仏像」が造られた
この世には、大きな流れ、あるいは空気観っていうものがある
それに流されない、不動なココロ
最後に、それを持つことが出来るか?
それが「悟り(≒里理!?)」っていうものだったりする
2008年の7月に、書き始めたモノを加筆して、オープン