自分にとっては「価値がある」
けれど、他のヒトの眼線から見る、あるいは関係無い!ヒトから言わせてもらえば「何の価値もない」!?
そんなモノゴトを、他人事な眼線からいうと、結論は「そんなモノは、我楽多だ!」っていうことになる
我れの「楽」が多い=自分の「楽しい」がたくさん有る
誰もが、自分が「楽しい」と思える、あるいは「楽(らく)だ」と思える世界に棲んでいたい
けれど、それをみんなで共有出来ない、あるいは「自分だけ」観がより強い場合、その世界を他のヒトは「ガラクタ」扱いする
例えば、どんな世界にも「コレクター(収集家)」っていうヒトはいるワケで、自分の「楽しい!」って思えるモノに囲まれていれば、嬉しい!!
... って、自分の拘(こだわ)っているモノを集めて、その中に棲んでいるヒトは、結構、世の中にはたくさん居る
けれど、存外、それを集めているヒトと、その廻りの家族などとの「温度差」には、大きな開きがあることが多い
本人以外、あるいは他のヒトの視点から言うと、何であんなガラクタ集めて、何が楽しいんだろう??ってことになる
ときに、骨董屋さんで「掘り出し物」を見つけたりする
それを掘り出し物だ!って思うのは、それについている値札よりも、それを見ている本人の「評価額」の方が上回ったときに、まず思えること
それを置いている骨董屋さん、あるいは、その前に「骨董」を売買した場所で附いた(≒憑いた!?)価格よりも、本当は「これぐらいの価格で売っても、買うヒトがいるよ!」って腹の中で思いながら、それ買った(≒勝った!って思った)とき、より満足感が持て、その「価値」も上がった様になる
その上、テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」なんかで、それに思っても見ない評価額が付いたりすると、ヤッパリね!!! って、益々充実感が上がって行く
逆に、そこで、二束三文の評価額が付いたりすると、会場はドット沸いたりする
... けれど、出展者本人は、とっても盛り下がる(≒死語化??)
そのときの「サプライズ感」のギャップが大きいほど、見ている立場から言えば、面白い
そして世の中には「適正価格」っていう、程ほどな値段、あるいは、みんなが「そんなところだよネ!」って、納得(≒得した感を、腹に納めること)が出来る、「基準の値(ときに≒音)」
そんな、だいたいのモノには、大体の値段がある様な気もする
そして、この世を「ガラクタの世界」にするか、しないかは、
結局、それをDO!評価し、DO!するか?
その考え方、その世界観に拠る様な気がするのは、私だけ!?