hot_eyes 雑記帳

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ジャーナリズム


20年くらい前に「究極の選択」というゲームが流行った
それに関する色んな新書本なんかが飛ぶように売れ、3人集まれば新しい例題をみつけては、誰かに出題してアタマを悩ましていた頃があった

あなたなら、どっちを選ぶか?

色んなケースを、みんなで見つけて「さあ、どうする??」って、お互いに迫って遊んだ
確か、経済バブルの弾ける直前だったから、みんな他人事でそんなことをやっていた
その後、実際の世界で、みんな色んな「究極の選択」をしなければならなくなって、いつの間にか忘れられた...

一方、現代は「場の空気」の中に究極の選択肢があり、みんなそれの読み合いに究キュウいっている
ちょっとした「発言」が、空気を読んでないんじゃないの?
って言われて、糾弾されるネタになる

先に「重箱のスミ」に箸を入れたヒトが勝ち!っぱい空気が蔓延している
みんなが評論家の世界
「ヒトの不幸は蜜の味」で、手ぐすね引いて石を握りしめているヒトが、彼方此方(あちこち)に潜んでいる!?
そんな空気感

「ペン」は、確実に武器になる
使い方によれば、ヒトを窮地に追い込むことが出来る
また「言葉のひとり歩き」の激しい時代でもあり、油断大敵であったりする

インターネットが広まった現代では、ネットに繋がっているパソコンがあれば、誰もがジャーナリストになれる

それなりの技術と、その「書き込み」を見てもらえる範囲が広ければ広いほど、その影響力が広くなる
だから「自分の発言が影響力を持っているらしい」と思ったヒトは、言葉を大切にしなければならない時代

最近、倖田來未(こうだ・くみ)が自分のブログに書き込んだことが問題になり、ミュージシャン活動の停止に追い込まれた
以前には「五体不満足」の乙武 洋匡(おとたけ・ひろただ)のブログが燃やされた
しょこタンは、箸にも棒にもかからない内容を書いているから、今だに100万単位のアクセスがある

確かに、くみタンもオトくんも、ちょっと言葉足らずな面があったことは否めない

けれど、彼らの実際の活動や言葉を知っているヒトなら、その足りない部分を聞く側の「空気」の中で埋めることができたはず
彼らがその「言葉」を使って、本当は何を言いたかったのか?を読めれば、問題はなかったはず
「待つこと」に不満足を感じるヒトが増えて来ている現代では、色んな物事の「尺(しゃく)」がどんどん短くなっているから、言葉も切れギレになって伝わることが多くなっているのも事実


「ジャーナリズム」とは?

本来、ペン(現代ではインターネット!?)を使って、その言霊の力で「本当の間違い」あるいは「陰に隠れた問題」を見出し、言葉にすること
それらを分析あるいは分類して「具体的な言葉」に変換しながら、それを「より良い状況にする」ための『道』を見出す作業をブンタンしているはず


現代は、色々な物事がコンガラカッってしまって八方塞がりな状況になっている

どれもが「究極の選択」と思われる中で、ジャーナリズムは、そこに「活路を見出す」ためのフォースであるべき
あるいは、今までみんなが知らなかったことを「みんなで共有して、一緒に考えるためのネタ」を整理する底力
何でもかんでも、ツッコミを入れて、お茶を濁すのは「どーよ?」な役割

『芸の世界』では、ボケる方が難しいが、ちゃんと突っ込みを入れるヒトがいるから、安心してボケ倒せるもの!?

重要なことを「重箱の隅ッポイところ」に隠そうとする輩(ヤカラ)は、確かにいる!
だけど、あまり重要ではない、他のヒトに任せておけば良い
「たくあんのミミ」なんかに気を取られていては、もっと突っ込みを入れなければいけない「モノごと」を見過ごすことになる

現代は、色んなことを職業にすることができる時代

多くのヒトが「ペンでも食べていける」ようになった
それは、昔と比べて「良い時代」なのは確か
だけど、物事を見る視点は、昔からの視点を忘れてしまってはいけないと思ったりもする

現代は「言葉」が軽くなってしまっているからこそ、それを『言霊』にする本来の「ペンの力」が必要な時代でもある
かつ、それは誰にでも出来る時代でもある...からこそ、って返すとドウドウ巡りか?になっちゃうけどね!?

みんな繋がっているんだよね

他人事ではいられない
廻り廻って「フリダシ」に戻ってくる...