hot_eyes 雑記帳

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大義名分

たいぎめいぶん

そんな「分 or 文」を振り翳(かざ)したセイで、日本人の中にはアジアの国々で、悪行三昧をしたヤツがいた
「我々は、天皇陛下の皇軍である!」なんて勝手に思い込んだから、ほかの国のヒトに対して「だから、自分たちは何をやっても構わない!!」なんて、自分達だけの「好き勝手なこと」を遣りまくった...

そんな方程式が罷(まか)り通った時代があった

だから、そんなものは「捨てろ!」と言われて、戦争に負けたとき「何もかにも」を捨てちゃった
すでに、それから60年も経っているのに、未だに自分が「何だか解らない!?」迷子のままで来ちゃったから、ちょっとしたことで右往左往して、腰が座っていない
最後は、自分は関係ない!って、何でも「他人事」にするヒトが増えていた!?

ヨーロッパでも、過去に「我々は、キリストのココロを引き継いだ十字軍である!」って言って、アラブの国々で、好き勝手をやったヤツラがいるから、今だにイスラムのヒト達に嫌われている...

未だに「自分たちだけ」が正しい!!って思っているトコロが見えるから、それから700年も経っているのに、喧嘩が絶えない
中には、ちゃんと解っているヒトもいるのに「一色多」に見られるから、何を言ってもダメになっているところもある

大きな「義」を書いた明らかな文

それは、みんなで共有することが出来る「目標」を文章にして、それに向かって頑張ろう!ってこと

例えば、学校で言えば「校訓」や「校歌」
あるいは「今日の目標」だし、会社で言えば「社訓」など

市町村で言えば「○民憲章」や「条例」だし、
一つのまとまりとしての国なら「憲法」や「法律」も、それの一つ

だけど日本は、建国以来!?今までに「国」として負けたことが無かったから、初めて敗戦をしたら「負け犬根性」丸出しになってしまった

国民性としては「長いものには巻かれろ!」っぽいトコロが強いから、アメリカ様に最敬礼!って言われたら、みんなしてそれに従って、それが「大義覆(ふく)文」になっちゃった
勝手なことをするな!って言われたら、必要以上に従順になる...

一方では「日本国憲法」が、世界的にも評価されているのに、何となく不安になっている

自分たちで作っていない!
とか言って、その中に含まれている「それまでの人類の英知の蓄積がある!」ってことを無視して、書き直そう!とか思っているヒトがいる
確かに、それはGHQの監修の下、作られたモノ

だけど、その中には日本人だけではなく、世界人の「思い」が盛り込まれているモノ
また、その陰には、日本の民権運動を支えた人びとの「思い」も含まれていると聞く...

一、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たっと)し...

で始まる、聖徳太子が作ったと言われる「十七条憲法」に通じるココロが、そこにもある!
ということを無視してそれをやろうと思っている

だけど、文章は文章で、それ以上でもそれ以下でもない
だから、それがどのような手順で、最後に誰が印鑑を押して作られたか?が問題ではない

「古典」というモノは、誰が書いたか?が問題ではなく、
その中に、ドンダケ~!?多くのヒトのココロに届く「風」が吹いているか?にある


さて、本当の問題は!?

その運用の仕方、あるいは解釈の仕方が、胸に手を当てて「正しいか?」どうかに掛かっている
考えてみれば、例えば「十七条の憲法」は、ホントに聖徳太子は居たの?っていう疑問から始まり、本当にそんな歴史があるの?って疑い出したら、すべてが「謎が謎を呼ぶ」迷路に入って行ってしまう

言葉には「裏おもて」があり、また「過ぎたるは及ばざるが如し」で、微妙なところにその本質があり、それを常に意識しながら、物事を判断して行くしかない

その「みんなで共通に持った明文」を腐らさないで、発酵させれば良い
のであって、常にお互いを見守りながら、頑張ろう!でいいのである
間違えるのは「ヒトのココロ」

文章が悪い!のではない

いくら書き直しても、世の中には「色んなヒトが居て、色んなモノ事が起きる」から、それを全部、場合分けをして、1つの言葉にすることは出来ない
逆に、人間の方から「これって、なんとなくイイんでないかい?」っていうトコロで、それを旗印にしてみる
後は「黙れ!」って言わないで、みんなで「あーデモない、こーデモない」って言い合いながら、みんなで生きて行く

そんな処でイイんでないかい、この世は??


日本人は、匠の技の結晶である「日本刀」というものを持っていた
それは、他のどんな武器よりも「理」に叶った形態をしている
武器としては「切っても良し、刺しても好し」の、万能の構え

また一方では、日本人は、神棚に「鏡」を置いた
それは、そこに自分の姿を映して、常に自分の行いを顧(かえ)り見るため
その向こうに「誰かいる!」ではない

本当の剣士は、常に自分の「刀」を丁寧に、ココロを鎮(しず)めて手入れをしていた
それは、そこに映る自分の影に、自分のココロに翳(かげ)りがないか?を確認するため

たぶん、アジアで自分勝手をしたヤツラは、自分が差していた「日本刀の手入れ」をしていない

先ず、そんなヤツラにカタナを持たせたことに問題があった
そして又、カタナを持たせたことに問題がなかったとしても、もし「未熟な者」に持たせてしまったのであれば、誰かが「常に刀の手入れをしなさい!」と教えて上げれば良かっただけ

たぶん、もし彼らが「刀の手入れ」をしていれば、そこに映った自分の「醜(見ったくな)い姿」に気づいがついて、自分の行いを悔い改めたはず
その後の歴史も変わっていた...どう成っていたかは、誰にも解らないけど

常に、自分を磨いていなければ、自分自身が腐る

それは、誰であっても同じ!
それは、人間は「生モノ」だから、仕方がない

常に「自分」の振り返って見る
それをするか?しないか?は、それぞれの「ヒトのココロ」に掛かっているものでも、有る