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差別と区別


この世の中、「まったく同じ」ということは、あり得ない

人間の社会は「二番煎じ」や「コピー」を作る技術に支えられ、それにより社会全体が発展して来たが、必ずどこかに「本物=オリジナル」が有る
だから、オリジナルを作る労力を守ること、「著作権の保護」は必要であり、新しいオリジナルが生まれる環境を守ることが必要になってくる
ただし「模造品」と言われるものにも評価できるものもあるし、発展形もある
その「螺旋状に結び付いた方向性」を理解しながら、本質を見極める「目」が必要になっているのが現代

また、人間であれば「自分がどんなオリジナルか」が分かっていれば、不動のココロを持つことが出来る
「生物学的に同じ存在」と言われている一卵性双生児は、その生きて来た足跡によって「どこかに違い」が必ず出てきて、それぞれが「オリジナル」として存在する

だから、付き合いが短くて、その「違い」が解らなくて、名前を呼び間違えたりすると「ムッ」とされたりする
※ちゃんと違いを明確にしない方にも、問題はある!?が...


そこで、「わける」作業
「これとあれ」とは、こう違う
だから、その違いで「どうこうする」という作業

そこに、それを分けたヒト、組織の「恣意的な価値判断」が含まれた場合、それは『差別』
単に「違いによって」分けられた場合、それは『区別』
と私は思う

けれど、「生きている存在」としての人間は、それぞれがオリジナルであり、始めから「違う」わけだから、常にその「別け目」は流動的で、固定した「線」は存在しない

例えば、「偏差値教育」の問題点は偏差値そのものにあるのではなく、その「偏差値という尺度だけで人間を判断しようとしたこと」にある
個々人にとっては、その基準で測った場合「自分がどこにいるか」という尺度として、偏差値そのものは必要である

だから、その「尺度だけ」で人間を選別しようとした、判断をする立場の者の『怠慢』に問題があるワケで、それ以外の価値基準を持ち得なかったところに、間違い、つまり本当の「差別が存在していた」のである
それを「みんな一緒に手を繋いでゴール」などというお茶を濁すようなことをして、「偏差値」という尺度だけ否定しようとしたから間違いが起きている
「縦にレーンを引いた」以上は、お隣りは「ライバル」で良いのである

だから運動会の「100m走」等では、自分がどれぐらいの能力があるのか「自分を知る」ために、他のヒトと競争してみないと分らない
止めるべきことは、その結果で人間としての存在に上下関係を持ち込む、「いじめ=差別」が始まるから、それが起こらないように対策することが大切なのである
だからといって「最初から手を繋ぐ」では、子どもの「本当の人生」が始まったとき、「自分が解らない」という本人が一番困るのだから、モラトリアム(古い!?)、試運転の時代に、色々と「他のヒトと競争してみること」が必要であり、大いに失敗するべきなのである

始めから「何事もみんな一緒」では、本人には自分が見えてはこない...

つまり現代は「表面的な差別」を解消するために、「同じ」を強調し過ぎた気がする
それこそ、それぞれの「違いがどこにある」のか、まずは色々な尺度で「区別」をする
それに沿って、「それぞれの存在の違い」を理解する

本当は、その「個々人の違い」によって、社会的な「役割分担」をする
そのときに、「面倒くさい」「自分がやりたくない」「妙なプライド」という判断する側の『恣意的なココロが紛れ込む』から、何時まで経っても「差別」がなくならないのである

逆に『役割分担の方』が、「誰がやっても同じ」ということが多いことは確かではあり、それが「あなた」を見えにくくしているも事実ではあるが...
最後に残るモノ、それが「あなたと私」の関係性

我々はまず、自分の中の「面倒臭いお化け」を消す力を持たなければいけない